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2014.
08.
11
本日第一回目の夏休みかつ、台風一過のためリゾ鳴尾浜にてバカンスを楽しみました。

皆さん週末に襲来した台風のうっぷん晴らしか??月曜日にもかかわらず大勢の方々が来場していました。
我が娘は久しぶりの青空に大はしゃぎでした!!

皆さん週末に襲来した台風のうっぷん晴らしか??月曜日にもかかわらず大勢の方々が来場していました。
我が娘は久しぶりの青空に大はしゃぎでした!!
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2014.
07.
23
先日京都へ行った際、蚕ノ社と広隆寺を見学しました。
①蚕ノ社
正式名称は「木島坐天照御霊神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)」。創建年月は不明で、秦氏による広隆寺創建とともに勧請されたという伝承もあります。

秦氏は、養蚕製絹の専門技術を独占していたそうで、古代の天然繊維のうち、いったんその技術を習得すれば比較的大量に生産できるのが絹であったようです。
秦氏一族は無限を富を産む蚕に感謝して、蚕養・織物・染色の守護神である萬機姫(よろずはたひめ)を勧請し、太秦の地に奉祭しました。

そのことから「蚕の社」と呼ばれるようになったそうです。
境内は緑が豊かで、「パワースポット感」が充満していますので、いつもの疲労感がとれるような思いになりました。
②広隆寺
広隆寺 (こうりゅうじ)は、京都市右京区太秦にある寺で、宗派は真言宗系単立。
山号を蜂岡山と称し、蜂岡寺(はちおかでら)、秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺などの別称があり、地名を冠して太秦広隆寺とも呼ばれます。

秦氏の氏寺であり、平安京遷都以前から存在した、京都最古の寺院です。
国宝の弥勒菩薩半跏像を蔵することで知られ、聖徳太子信仰の寺でもあります。

さすが古刹、境内は非常に綺麗に整備され最近のうだるような暑さも忘れるような感じになりました。
①蚕ノ社
正式名称は「木島坐天照御霊神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)」。創建年月は不明で、秦氏による広隆寺創建とともに勧請されたという伝承もあります。

秦氏は、養蚕製絹の専門技術を独占していたそうで、古代の天然繊維のうち、いったんその技術を習得すれば比較的大量に生産できるのが絹であったようです。
秦氏一族は無限を富を産む蚕に感謝して、蚕養・織物・染色の守護神である萬機姫(よろずはたひめ)を勧請し、太秦の地に奉祭しました。

そのことから「蚕の社」と呼ばれるようになったそうです。
境内は緑が豊かで、「パワースポット感」が充満していますので、いつもの疲労感がとれるような思いになりました。
②広隆寺
広隆寺 (こうりゅうじ)は、京都市右京区太秦にある寺で、宗派は真言宗系単立。
山号を蜂岡山と称し、蜂岡寺(はちおかでら)、秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺などの別称があり、地名を冠して太秦広隆寺とも呼ばれます。

秦氏の氏寺であり、平安京遷都以前から存在した、京都最古の寺院です。
国宝の弥勒菩薩半跏像を蔵することで知られ、聖徳太子信仰の寺でもあります。

さすが古刹、境内は非常に綺麗に整備され最近のうだるような暑さも忘れるような感じになりました。
2014.
07.
22
先日浜大津へ行った際、ひときわ威厳のある建物があったので、少しの間その外観を眺めていました。

その建物の名は「旧大津公会堂」といい、昭和9年に建設され、名称や用途を様々なに変えながら市民の交流の場として親しまれました。

昭和60年からは、大津市社会教育会館の名で社会教育の拠点として利用されてきましたが、施設の老朽化により利用率が著しく低下していることに加え、耐震上も大きな問題を抱えていたため、平成15年から地域住民を中心に起こった保存運動の後押しを受け、大津市の中心市街地の賑わいを取り戻す為の集客交流拠点として整備され、建築当時の洋館の雰囲気をそのままに、4つの飲食店が入った交流・商業施設として大きく生まれ変わりました。
外観はもちろん、内装も非常にこっていて、次回は是非ともここで食事をしてみたいものです。

その建物の名は「旧大津公会堂」といい、昭和9年に建設され、名称や用途を様々なに変えながら市民の交流の場として親しまれました。

昭和60年からは、大津市社会教育会館の名で社会教育の拠点として利用されてきましたが、施設の老朽化により利用率が著しく低下していることに加え、耐震上も大きな問題を抱えていたため、平成15年から地域住民を中心に起こった保存運動の後押しを受け、大津市の中心市街地の賑わいを取り戻す為の集客交流拠点として整備され、建築当時の洋館の雰囲気をそのままに、4つの飲食店が入った交流・商業施設として大きく生まれ変わりました。
外観はもちろん、内装も非常にこっていて、次回は是非ともここで食事をしてみたいものです。

2014.
07.
14
所用で近江八幡から八日市へ。
大阪からJR琵琶湖線で近江八幡へ行き、ここから近江鉄道に乗り換えました。

完全に田舎の電車です!!

大昔に水間鉄道に乗った時と同じような感覚になってしまいましたね。
そうこう言っているうちに八日市駅に到着。

少しだけ時間があったので、野々宮神社を参拝しました。

この野々宮神社は延暦二年、野野子庄十三ヶ村の総社として、坂本日吉神社第六殿所祭の祭神三柱及び聖徳太子御自彫の子安延命地蔵尊を併祀しました。
当時蓮花寺、光林坊、正覚坊、団子坊、浄荘庵の五別当坊がありましたが、弘化元年の兵火によって焼失したそうです。
明治までは十禅寺大権現とも称したようで、天明四年の文書には本社十禅師とあり、末社として現在の境内社が記され九尺四方の釣鐘堂、地蔵(蓮花庵)があったそうです。
明治元年の野々宮神社と改称したとのことです。
境内は緑の木々がうっそうと茂っていて、非常に厳かな雰囲気です。

いつものごとく、家族の健康と、仕事がうまくいくよう念入りにお祈りを捧げました。
大阪からJR琵琶湖線で近江八幡へ行き、ここから近江鉄道に乗り換えました。

完全に田舎の電車です!!

大昔に水間鉄道に乗った時と同じような感覚になってしまいましたね。
そうこう言っているうちに八日市駅に到着。

少しだけ時間があったので、野々宮神社を参拝しました。

この野々宮神社は延暦二年、野野子庄十三ヶ村の総社として、坂本日吉神社第六殿所祭の祭神三柱及び聖徳太子御自彫の子安延命地蔵尊を併祀しました。
当時蓮花寺、光林坊、正覚坊、団子坊、浄荘庵の五別当坊がありましたが、弘化元年の兵火によって焼失したそうです。
明治までは十禅寺大権現とも称したようで、天明四年の文書には本社十禅師とあり、末社として現在の境内社が記され九尺四方の釣鐘堂、地蔵(蓮花庵)があったそうです。
明治元年の野々宮神社と改称したとのことです。
境内は緑の木々がうっそうと茂っていて、非常に厳かな雰囲気です。

いつものごとく、家族の健康と、仕事がうまくいくよう念入りにお祈りを捧げました。
2014.
07.
07
妖怪ウォッチショーを見たあと、泉佐野漁協青空市場を見学しました。
いつみても新鮮な魚介類が安い!!

今回の目玉商品は、私の父が購入した「亀の手」です。

海水でゆでて、2回沸騰させて食べれば、酒の肴に最適だそうです!!
いつみても新鮮な魚介類が安い!!

今回の目玉商品は、私の父が購入した「亀の手」です。

海水でゆでて、2回沸騰させて食べれば、酒の肴に最適だそうです!!
2014.
06.
27